『あの、すみません。ここってどういった感じの場所なのですか?』
誰かの声が聞こえる。
僕の意識が、ゆっくりと浮き上がっていくように戻っていくのがわかった。
『ところでどうして、水の中に沈んだままで生きていられるのですか? あの……聞いています? 意識ありますよね……?』
目を開けると、視界一面に蒼が広がっていた。
ここは……そうか、僕は致命的な大ゲガをして、治療のためにエリクシルコフィンに入れられたんだった。そしてここが、移民艦の中だってことも思い出した。
あれから、どれくらいの時間が経ったんだろう……?
『おかしいですね、わたしの声が聞こえてないのでしょうか……』
綺麗に整った顔が、正面の強化ガラスの向こう側にギリギリまで近づいた状態で、僕の顔をじっと見ていた。蒼いエリクシル越しだから、肌の色とか髪の色とかはわからないけれど、白に近い髪色なんだろうな。彫りが深い美人顔は、少なくとも日本人の顔じゃないことだけはわかった。
首を傾げるたびにサラサラと流れる髪に、ちょっとたれ気味の大きな瞳。
服はギリシャ神話とかに出てくるような、上から被った布を要所で絞ったような特徴的な服装をしている。そしてその体の後ろ側、背中には大きな翼が生えているのが見える。
……翼?
何で人間に、翼が生えているんだ?
『あ、目が合いましたね。ここの様子が全くわからないので、早くそこから出てきて説明してもらってもいいですか? 聞こえてますよね?』
さらに、視線を少し上に向けると頭の上に、光の輪っかがある。
天使……だよな、きっと。
視線を戻すとその天使は、さらにおでこをガラスにくっつけて、僕の目をじーっと見つめてくる。頬も膨らませていることをみると、どうやらちょっと怒っている感じだ。
僕は自分では出られないんだ――。
声に出そうとして口を動かしてみたんだけれど、エリクシル漬けになっている今の状態って、普通に水の中にいる状態と一緒なんだ。だから当然、声が出せない。
ただ、僕の口が動いたことに気がついたのか、今度は眉間にシワを寄せている。
それにしても、不思議な状態だよねこれ。
僕の状況を一言で言い表すなら、僕は今、溺れているんだ。
だけど生きている。
ね、不思議でしょ?
人間は酸素を呼吸している生き物だから、エリクシルとはいえ水中にいる状態は、普通に考えても呼吸ができていない。それなのに何で生きているのかというと、エリクシルが肺を、血液を、そもそも全身の細胞を常に蘇生し続けているからなんだ。そうすることによって、エリクシルに浸かっている人は生き続けることができる。すごい発明だよね。
まあ、その御蔭で『人類移民計画』なんて、壮大なプロジェクトが実現したんだけど。
そしてここは移民艦。さらに僕が入っているのはエリクシルコフィンという名前の冷凍睡眠装置なんだ。エリクシル特有の『蘇生をする』性質を利用して、完璧な冷凍睡眠装置を作った。
そして、人類は地球から飛び出したわけだ。
何が言いたいかというと、今僕は凍えるほど寒い。
違うな、そもそも凍ってるのかも。
『……つまり、わたしが何か操作をしてそこから出してあげればいいってことなんですね?』
思わず目を見開いた。
それができるならば、色々ありがたいんだけど……。
『少し待っててくださいね――』
そう言って天使は、周りをしばらく見回してから何かを見つけたんだと思う。翼を揺らしながらどこかに駆けていった。
途端に静かになる。
そうなると音はどうやって拾っているんだろう、とか、どうでもいいことを考え始める。腰元で、何かが震えている気がして思考が中断されるんだけど、やっぱり次々に無駄なことを考えてしまう。
そういえば……ミモザはどうしているかな。
無事、方舟に着いたかな。
待って、そういえばさっきまで見ていたあの夢って、何だったんだろう。
あれって、実際に起きたことなのかな?
もしだよ、もし少し前まで見ていた夢が現実だったとしたら、僕は今ものすごい非常事態じゃないだろうか……?
『ピッ。移民ナンバー、JPN−05584の蘇生処理を開始します。
エリクシル濃度チェック……規定濃度クリア。エリクシルコフィンの状態チェック……制御回路異常なし、外装の損傷なし……クリア』
唐突に、頭の中に機械音声のアナウンスが聞こえてきた。
どうやら僕の蘇生処理が始まったらしい。
『周囲の空気状態確認……酸素濃度、規定範囲内。危険物質の確認……異常なし、クリア。
周囲の環境確認……異常な振動、及び重力異常を感知……母船、方舟の異常降下を確認。電源喪失、方舟との通信が切断されました。
方舟との通信状態再確認……通信不可能。トキオシティ総合データにアクセスできないため、単独蘇生モードで蘇生処理を続けます』
『あ、何か始まりましたね。よかった、これで何とかなるのですね?』
体が暖かくなってきた。どうやらエリクシルの温度が上昇しているみたいで、それに合わせて体の感覚も少しずつ戻って来ている。
それより何だか、気になるアナウンスが流れた気がするぞ?
母船方舟が異常降下しているって、たぶん墜落しているんだよね、方舟。ってことはだよ、あの夢ってやっぱり実際に起きていること……なんだよね?
夢の中でミモザは方舟の都市部には辿り着けたけれど、確か機関区は吹き飛んで無くなっていた。そしてあの夢の中では、倉庫区にあった移民艦は……ドラゴンの目の前で空中に零れ落ちていたはず……。
まさかな。
『収容者のバイタルチェック……心拍、血圧ともに規定範囲内、クリア。収容者のメンタルチェック……脳波確認、規定範囲内、クリア。蘇生処理完了、つづいて覚醒処理に移行します』
体に微弱な電流が流れたのがわかった。
普通ならこれで、目が覚めるんだろうな。
ゆっくりと、僕が入っているエリクシルコフィンが仰向けに倒れていき、それに伴ってエリクシルが排出されていく。そして全てのエリクシルが抜けきったところで、正面を覆っていたガラスがスライドしていき、外気が流れ込んできた。ちょっと寒い。
「おはようございます。早速ですが、色々お聞きしてもいいですか?」
「あ……ああ、声が出せる?」
縁に手をかけて上体を起こした。
肺の中にあったはずのエリクシルは一瞬のうちに無くなったみたいで、咽ることなく呼吸をすることができた。
あらためて、目の前の天使を見てみる。
白い肌に白い髪、頭上に浮かんでいる天使の輪は黄金色に光り輝いている。もちろん背面にある翼は純白で、折りたたまれているのにも関わらず背丈ほどもある。中性的な顔は綺麗で見惚れそうになるんだけど、天使ってことは男でも女でもないんだよな、きっと。
ちなみに胸はまっ平らに見える。
っていうか、天使って物語の中だけにしかいないと思っていたんだけど?
「あの、ここってどこなのですか?」
「……えっと、ここ? たぶん移民艦の中……じゃないかな?」
「イミンカンですか……? 言葉の響きからして、船的な何かでしょうか」
「たぶん、その認識が近いと思うよ、ってうわあっ――」
エリクシルコフィンから出て立ち上がろうとして、ふらついてそのまま床に転がった。何だか床、斜めになっていない?
突然、照明が消えて、辺りが真っ暗になる。
それだけじゃない、次の瞬間には視界が一回転して天井に投げ出された。
「明かりを、きゃああっ――」
天使も、光の玉を手のひらから飛ばした直後に、僕と同じように天井に投げ出されている。とっさに空中で羽ばたこうとでも思ったのか、大きく広げた翼に僕が引っかかって二人して錐揉み状態になった。
あの夢に見た景色が現実なら、ドラゴンブレスで吹き飛ばされた移民艦が無制御のまま墜落しているんだと思う。それも艦体自体が錐揉み状態みたいで、当然中に乗っている僕らも同じ様に振り回される。
空中に浮かんでいる光の玉で視界は確保できているけれど、二転三転する部屋に僕らは翻弄されるしかなかった。
天使の翼からもげた羽が宙を舞う。
壁に、床に天井に、激しく上下左右が入れ替わるたびにぶつかった。
やがて、ひときわ大きな衝撃とともに、僕は仰向けで天井に落ちた。さらに僕の上に天使も落ちてきて、僕に覆いかぶさるように止まった。
静寂が辺りを包み込む。
「助かった……のか?」
もぞもぞと天使の下から抜け出して、大きくため息をついた。
運がいいことに、直前までエリクシルに浸かっていた僕は、打撲傷を受けるたびに体がすぐに修復されていたんだ。
逆に天使はうつ伏せのまま動かない。背中が上下に動いているから、多分気絶しているんだと思うけど。それよりも片翼が根本から折れていることに気づいて、僕は思わず顔をしかめた。
光の玉が上からゆっくり降りてきて、天使のそばで止まった。
「管理していた渦に落ちてしまいまして、気がついたらここにいたのです」
「そうしたら僕があのエリクシルコフィンに入っていたと」
「ええ。近くの生命の気配はあなたの入っていた、えるくしるこひん? だけで、他の気配は遠くの方に固まっていたのですが、先程まとめて消えてしまいました……」
「……エリクシルコフィンだよ」
部屋の棚に収納してあった病衣に袖を通すと、何だかやっと人心地がついた。目覚めてからずっと裸のままだったから、やっと文明人に戻れたよ。
振り返ると、天使が床に膝を抱えて座っていた。
僕と目が合うとほほえみを返してくれるんだけど、やっぱり片翼が折れているからか、ちょっと元気がない様に見える。
さて当面の問題は、電源が落ちたこの移民艦からどうやって脱出するかだよ。
ただ……天使がいる時点で、普通じゃない気がする。