「まず、世界の生い立ちから説明しますね」
「お、生い立ちからなんだ……」
クーラーバッグに座るミリエルに紅茶のペットボトルを手渡して、僕は反対側のクーラーバッグに腰を下ろした。キャップを外して一口飲むと、思った以上に喉が渇いていたのか、気がつけばそのまま一気に飲み干していた。
嫌な予感がして周りに視線を向けると、いつの間にか僕たちは周りを大きな黒い狼に囲まれていた。
遠目に見ても周りに生えている大樹と大きさが変わらないから、狼の体高は二メートルから三メートルはあるんじゃないかな。ものすごく大きな狼だ。
その数ざっと二十体以上。
黒い狼が呼吸をするたびに、口元から赤い炎が漏れ出ている。
……えっと、これってもしかしなくても絶体絶命……とか?
どうやら僕たち二人は、瞬くよりも短い時間の間に囲まれていたらしい。
「世界が誕生した全ての始まりは、生きた高エネルギー体が自身のエネルギーに耐えきれなくなって爆発したことです。これを私たちはエネルギー生命体の超爆発と呼んでいます。
その後で一気に世界が膨張し、大きく広がっていき、そのエネルギーの中心だった地に、必ず生命が生まれている事がわかっています」
「え……それって、もしかして宇宙の始まりのビッグバンのこと?」
「あなたの世界では、そう呼ばれているのですね。呼び方は、その始まりを観測できている世界毎に違うようですが。
そして私の世界では、爆発の後の膨張速度が著しく遅かったようで、はっきりと始まりを観測することができたのです。そしてその結果、違う経過を辿る別々の世界線への分岐が、膨大な数あることがわかりました。
世界は同時に無数存在しているのです。それこそ無限に近い数ですね」
なんか聞いたことがあるような気がして聞いていたら、どうやら宇宙の誕生の話だったみたい。誰もが知っている、宇宙誕生のビッグバン説だよね、これ。
ただ、分岐した異なる世界の話は都市伝説だったと思う。違う進化を辿る違う世界がある可能性は考察されていたけれど、観察できなくてしっかりと実証されていなかったはずなんだ。
もしあの時、違う行動をしていたら違う世界だった……とか、その程度だったと思う。それですら時間を過去に向かって跳躍して、経過を観測。その後でまた元の時間に戻ってこないと観測できないからね。
でも今は、正直言ってそんな話をしている場合じゃないと思うんだ。
今も狼達が着実に、包囲を狭めてきているんだから。
「えっと……そうなんだ。ってかそれより、僕たちヤバい生き物に囲まれてるみたいなんだけど――」
遠巻きに様子を見ていた狼達がゆっくりと回り始めた。
燃えるような真っ赤な瞳が、じっと僕たち二人を見据えている。たまたま今が襲ってくるタイミングじゃないだけなんだと思う。黒い狼達が頭を下げてゆっくりと歩く様に、背筋が凍る思いがした。
そんな周りの様子に気がついていないのか、ミリエルの話はさらに続く。
「ちなみに今、私たちがいるこの世界も、同じ始まりを持つ別の世界線に存在している世界ですね。無限無数にある世界ですが、それぞれの空間の広がる速度や潜在的な大きさ、あとはエネルギーの密度の違いよって差異が生まれるわけです」
「ね、ねえ。逃げないといけないのに、逃げられそうにないんだけど、まだ話は続く……のかな……?」
「ええ。まだざっくりとすらも説明できていませんので」
黒い狼の動きが止まった。
心なしか、周囲の気温が上がったような気がする。
「ここからがざっくりした話なのですが、その無数に分岐する数多の世界は、再びまた一つに戻ろうとする力が働いているようなのです。世界線を越えて、その差異を無くすために相互に干渉しあっています。その結果、必ず世界に歪みができます。私の世界では、その発生した歪みを修正するのが天使族の仕事ですね。
神族が世界のエネルギーを維持し整えて、天使族が密度を管理し、異常があった場合に修正するわけです。そんな世界構造ですから、神族と天使族しか生物はいないのですが」
「いよいよ危険が危なくなってきたよ。ちょっ、何かちっこいのが出てきたっ!」
大きな狼達の間から、黒い体毛に燃えるような赤が混じった狼が一体、ゆっくりと出てきた。大きさは周りの狼の半分くらいなんだけど、その小さい狼から押し寄せてくるような圧力に僕は思わず息を呑みこんだ。
本能が危険だと警鐘を鳴らす。もうすでに身体は強張っていて動かない。
どうしてミリエルは、こんな状況にも関わらず平静でいられるんだろう?
気温が一段上がったように感じる。緑色だった地面の草花が、萎れて茶色く変色を始めた。熱気に空気が揺らめくのが見える。
いやいやいや。やばいって。どどどどうしよう。
「それで私なのですが、つい先程まで私の担当区域にできた赤い歪みを、いつもどおりの手順で修正していたのです。ただいつもと違っていたのが、その赤を見ていたら、その日に私が摂取する予定のエネルギーに、どうしても赤が欲しくなってしまって――」
「き、来たっ……!」
『ふむ……何とも変わった組み合わせだな。ありえない混じり物の魔族と、そっちは鳥型の魔族……ではないな。魔力構造が根本から違うのか……』
周りと比べて小さいとはいえ、近づいてきたのは体高一メートル以上ある狼だ。僕とミリエルは座っているわけだから、当然だけど視線は同じ高さになる。僕と同じ視線に、狼の真っ赤に燃える瞳が並んだ。
鳥肌が立つ。毛穴が開いて汗が吹き出したのが分かった。
そして喋り始めた狼は、すぐ近くまで来たかと思うとその場に座った。
……えっ、座った?
それに合わせて、辺りを包み込んでいた重い空気が、少しだけ軽くなったような気がした。逆に周りの温度は真夏を思わせるような暑さに変わったけれど。
汗がさらに滝のように流れ出す。
『それに我が威圧をかけても怯まず、かと言って攻撃の意思は無しか。なんとも面白い、久しぶりの客人と言ったところか』
いや、僕は普通に動けなかっただけだよ。
そしてミリエルが初めて、僕から視線を外した。狼の方に顔を向けると、ニッコリと笑った。
「こんにちは狼さん、初めましてですね。私は、神界において天使第七階位に在位しています、大天使ミリエルと申します」
『ふむ。やはり面白い娘だな。我はこの辺りを縄張りにしている狼を率いているだけの、ただの狼だ。特に名など持っておらん。森エルフ共は我らのことをヘルウルフと呼んでいるが』
「ヘルウルフさんですね。よろしくお願いします。
私たちは、たまたまここに迷い込んでしまった、迷人なんです。今はこちらのイブキさんに、ざっくりと色々と説明していたところです」
『ふむ。やはり物怖じしないか。面白い。我もその話とやらを聞かせてもらおうか』
「ええ構いませんよ。と言っても、話自体はすぐに終わってしまいますが」
『よい。今までの話も、それとなく耳に入っておる』
僕に関係なく、話が進んでいく。
いつの間にか、僕たちの周りを取り囲んでいた大きな狼達が一頭も居なくなっていた。圧迫されるような空気は緩和されたけれど、目の前にいる狼のせいで空気自体は暑いままだよ。
その暑さのせいか、それとも目の前にいる狼のせいなのか、喉がカラカラだ。
「それでですね、私は余計なことを考えていたせいで、その赤い歪みに落っこちちゃったんですよね。それで気がついたらあの木の上の方、高いところに放り出されて、あとはそのままイブキさんの所に落ちていった次第ですね」
『先程の膨大な魔力の歪みは、そなたがこの世界に顕現した時にできたものだったのだな。空間のゆらぎを感じた若い衆が落ち着かなくてな、塒から遥々出っ張ってきたのだが、ただの次元渡りだったということか』
「恥ずかしながら、そんな感じです。世界構造が違うのか、ここでは周りから魔力を取り込めないので、翼で羽ばたいても空が飛べないみたいですし」
『それは難儀なことだな。でもまあ仕方あるまい。この世界は魔族が使った魔法が、魔素となって全て星に還るのだ。そもそも魔力は魔族や魔獣が体内で生成するから、そもそも魔力は存在していない。だから空間には一切魔力が漂っておらん。諦めねばなるまい』
「そうなんですね。それでだから私は、いつも通りに飛ぶこともできないのですか」
この時点で完全に僕は蚊帳の外で、ミリエルは既に、体ごと狼に向かって話をしている。
確か僕が、ざっくりした説明を受けていたはずなんだけど……まあ、いいか。別に途中から大した話じゃなかったみたいだったから。それに思いの外、ミリエルと狼は話が合うみたいだし。
物資はある程度あるから、ここを仮拠点にして周囲を探索でもしようか。日本列島があったんだから、もしかしたらこの星は地球と同じ地形をしているんじゃないかな。もしそうだとしたら、まあ何とかなると思う。
僕は座っていたクーラーバッグから腰を浮かせると、中から緑茶のペットボトルを取り出した。口にお茶を含んで喉を潤す。
うん、美味しいや。
『まあ、いつまでもここに居ても仕方あるまい。今から移動すれば、夕刻までには一番近い人里に辿り着けるだろうが……お主ら何処か向かう予定はあるのか?』
「ありませんよ。そもそもここがどこか知りません。それにきっともう私は、神界には戻れませんからね。狼さん、案内をお願いできますか」
『相分かった。では案内しよう――』
ミリエルと狼が立ち上がって、歩き始めた。そんな様子をお茶を飲みながら眺めていたら、数歩進んだところでミリエルと狼が立ち止まって振り返った。
『何をしている、そなたも向かうのではないのか?』
「ブフォッ――」
思わずお茶を吹き出していた。
話に参加していなかったから、ここから別行動だと思っていたんだけど。どうやら僕も一緒に行くらしい。
「えっ、ぼ、僕?」
「イブキさんは何処か向かうところがあるのですか?」
「行きたい所はあるんだけど、そもそも僕もここが何処だか分かっていないかな……」
『さすがに我には魔族共の使っている地名までは知らぬぞ?』
「いいよ。多分、言われても僕だってわからないだろうから。最悪、自分の目で見て、地形から判断しようと思っていたし」
そもそもドラゴンに吹き飛ばされて、すぐに気絶していたから何処まで飛ばされたのか分かっていないんだよね。
ここは、そうか。一緒に行ったほうがいいのか。
「ごめん、待って。すぐに準備をするよ」
『ふむ、慌てずともいい。しっかりと準備するがいい』
そうは言っても、持って行けるのってリュックサックとキャリーバッグ位のものだけれど。
ミリエルと狼に少しだけ待ってもらって、僕は必要なものをその二つに詰め込んだ。