桃華がキャリーバッグから椅子とテーブルを取り出して、管理者の女性に座ってもらった。余程急いでいたのか息を切らした彼女は、ゆっくりと息を整えた。
さらにいつものお茶セットが出てきて、ティーカップにお茶が注がれた。漂ってきた香りからするとどうやら今回は、烏龍茶らしい。
しかしアレだな、なんで管理者がここに来たのかがわからない。
そもそもダンジョンの管理者はダンジョンから出ることが出来ないはず。それが、ダンジョンルームから出るだけでなく、別の世界……でいいのかな? とにかく、違う場所に転移してきている。そのうえで、存在を保ったままでいるわけだ。
『あ……美味しい……』
篤紫が見ている前で管理者の女性は、当たり前のようにお茶を口に運んでいた。
ダンジョンコアによって作り出された存在のはずなのに、その所作は無駄に人間っぽい。確たる意志があるようにも見える。
そもそもだ、前提条件として、ヒスイのような生体ダンジョンコアは常識から外れた存在で、普通はダンジョンコアが意思を持つことはないはずなんだ。さらに言うなら、目の前にいるのは、ダンジョンコアよりも下位存在の管理者。当然ながら、ただの管理者に意思が存在することはありえない。ありえないんだが、ありえない事態だよなこれ。
いや待てよ、ここって一般常識とか、普通の物理法則が適用されていない世界なんだよな。ゲームの中の世界みたいだし。だったらもしかしたら、問題なく世界渡りができるのか――。
篤紫が色々考えている間に、事態はさらに複雑な事態へと進んでいく。
「ねえ、篤紫さん。彼女だけど、何だかさっきより色が薄くなってきていない? って、聞こえてないわね……」
「確かに元々青く透き通っていましたが、透明に近づいている気がします」
「ねえ、ヒスイちゃん何とか出来ない? 篤紫さんもしばらく物思いに耽ったまま、戻ってこないと思うのよ」
「月の雫なら、エネルギーを与えられると思いますが……」
少し俯いたヒスイは、すぐに手のひらに月の雫を作り出した。
「でも本当に渡しても大丈夫なのでしょうか?」
「わからないわ、でも放っといたら消えちゃう気がするのよ。篤紫さんは今も余計なこと考えているから、目の前の彼女の非常事態に一切気づいていないわ。それにあれよ、何かあっても篤紫さんがなんとかしてくれるはずだし」
「……わかりました。月の雫、渡しますね」
「そうね。お願いね」
『……あの、これは?』
何だか幸せそうにお茶を飲んでいた管理者の女性は、びっくりして顔を上げた。差し出されたヒスイの手に乗っている月の雫を見て、少し逡巡した後、恐る恐る黄金色の雫に手を伸ばした。
「それはね、ちょっとしたお薬みたいなものよ。早く良くなるといいわね」
『えっと……わかりました、いただきます……』
どうやら自分が消えかかっていることに、全く気がついていなかったらしい。
桃華が飲み込む仕草をしたのを見て、しばらく躊躇った後に何か決心したように管理者の女性は月の雫を飲み込んだ。
そして、女性が白く光り輝き始める。
「うわっ、何が起きたんだっ――」
篤紫が思考の海から戻ってきた時に目に入ってきたのは、完全に想定外の事態だった。
テーブルの向こうに座った管理者の女性が発する白い光は、徐々に紫色の光が混じっていき、さらには体の表面に紫電が走り始めた。青く透き通っていた身体が徐々に黄金色に色づいていく。
透明だった肌が艷やかな肌色に、背中まで伸びた青い髪も黄金色に変わった。ついでにと言わんばかりに身体と一緒に透明になりかけていた衣服も黄金色に変わる。希薄だった雰囲気が一気に、一つの個として存在感を放ち始めた。
どこからか吹いてきた風が、俯いた管理者の女性の金色の髪をふんわりと捲き上げる。
「……マジか」
「何だかね、彼女。すぐにでも消えちゃいそうだったから、月の雫を飲んでもらったのよ」
「うえっ? それ、マジで?」
桃華の顔を見ると、いつもの笑顔でしっかり見つめ返してきた。
「で、でもさ、一言先に相談してくれても――」
「無理よ。私がいくら話しかけても、篤紫さん上の空だったじゃない。先に彼女が消えちゃったら、何が起きているのか分からなくなっちゃうわ」
「ああ……そっか、ごめん。そもそも、そんなに選択肢はなかったか」
例えば早く気がついたとしても、取れた手段はそれほど多くなかったと思う。
やがて光が収まって、俯いていた管理者の女性がゆっくりと顔を上げた。
「――ここはいったい、私はどうなって」
「気分はどうかしら。さっそくだけど、向こうで何が起きたのか話をしてもらってもいいかしら?」
「!! そうです、助けてくださいっ!」
管理者の女性すが立ち上がった反動で、座っていた椅子が後ろに派手に転がっていった。すぐに自分のしたことに気がついて、顔を真っ赤にしながら椅子を取りに駆け出した。
まずいな、さらに人間臭くなったぞ。直接頭に響くような、それでいて無機質だった声が、普通に耳に届く抑揚のある声に変わっている。
いったいこれで世界が、どこまで変わったのか――。
「まずは、お茶でも飲んで落ち着くといいわ」
「あ……はい……」
「えっと……お母様? それですと、また繰り返しになってしまいますよ」
「大丈夫よ、私に任せて」
「あ……美味しい……」
桃華に勧められてお茶を飲んだ管理者の女性は、気分が落ち着いたのかゆっくりと息を吐き出した。姿が変わる前と比べて、表情も明らかに豊かになっている。
篤紫が桃華に顔を向けると、しっかりと頷いてきた。ここは、任せたほうがいいのか。
「まず、名前を聞いてもいいかしら?」
「名前……ですか……?」
少し俯いて考えた後、ゆっくりと首を横に振った。
「私はトキオシティダンジョンの管理者です。特定の名前は持っていません……でも、持っていないはずなのですが、どうしてでしょう。胸のあたりにポッカリと穴が空いたような喪失感があります……」
「それなら、自分はどんな名前がいいと思う?」
「私の……名前……」
再び俯いて、じっくりと考え込んだ。しばらくしてからゆっくりと顔を上げる。
「私は……アーク? だった気がする――」
ふわっと、管理者の女性――アークの髪が風もないのにぶわっと浮かび上がった。それに合わせて、世界が激しく明滅を始める。バリバリと何かが割れるような音も聞こえてきた。
地面が小刻みに揺れ初めて、徐々に揺れが大きくなっていく。
ちょっと、これってまずい状況なんじゃないか?
桃華はアークの顔を見たまま、落ち着いている。その向こうに座っているヒスイは、何だか逆に落ち着かない様子で桃華とアークの顔を交互に見ている。ヒスイが正常な反応だよな。しかし、これって大丈夫なのか?
そして、世界が暗転した。
激しく揺れていた世界が静寂に包まれる。
「うわっ、真っ暗に……って、戻った?」
暗闇に包まれたのは一瞬だけで、再び周りが明るくなった。
浮かび上がっていたアークの髪が、ゆっくりと戻っていく。どうやら世界が暗転したのは本人にも想定外だったみたいで、目を大きく見開いたまま固まっていた。
「アークちゃんね。それで、さっき私たちが居たダンジョンで何が起きたのか、あらためて教えてもらっていいかしら」
「えっ……あ、はい。あのっ、ごめんなさい」
立ち上がったアークが頭を下げた。慌てて立ち上がったからか、再び座っていた椅子が後ろに吹き飛んで行った。
さっきもやったよね、これ。ついでに、さっきよりも遠くに吹き飛んでいる。てか、何を謝ったんだろう?
アークはやっぱり顔を真っ赤にしながら、慌てて椅子を取りに行って、桃華の正面に座った。
「す、すみません……そ、その、あの後いつもどおりプレイヤーの方々の情報を管理していたところ、世界が突然揺れたのです。それで何故か突然都市部で多くの建物が崩れて、たくさんのプレイヤーの方々が生き埋めになってしまったのです」
なんだか、嫌な予感がするぞ。
「想定外の事態に、慌ててマスターパネルを開いて状況確認と、建物の復旧等の対処をしていたところ、ちょうど近くで転移待ちをしていたプレイヤーが、突然私に襲いかかってきました。気がつくと、私の両腕が切り飛ばされました」
「ちょっと待ってくれ。アークはダンジョンコアの分体扱いなんだよな。そもそも傷がつくのか?」
「篤紫さん? いま、私がアークちゃんと話ししているのに、口を挟まないでほしいわ」
「いやごめん、それどころじゃないというか――」
桃華が頬をぷっくりと膨らませて、ちょっと不機嫌そうに睨んでくる。篤紫は途中まで言いかけて、大きく息を吐いてその先の言葉を呑み込んだ。
アークはと言えば、そんな二人のやり取りに苦笑いを浮かべていた。
「先に篤紫の質問に答えます。本サーバーにある設定でも、ダンジョンコアとダンジョン管理者は破壊不可で登録されています。ですから、本来ならば私が傷つけられることは無いはずなのです。完全に不測の事態です」
「あらら、篤紫さんのこと呼び捨て?」
「ちょっと桃華、さすがにそれは仕方ないよ。彼女はそもそもがダンジョンの管理システムなんだから、プレイヤーに対して普通に『さん』付けとかしないだろうよ」
「……言われてみればそうよね、ごめんなさい。話を続けてもらってもいいかしら」
もうね、桃華がいると話が進まない気がしてきた。
アークにも何だか温かい目で見られているような気がする。きっと様々なプレイヤーと話をしていて、似たような対応をしたことがあるんだろうな。
「話を戻しますね。突然の事態に動けずに居たところ、さらに脚を、胴を斬られてその場で仰向けに転がったのです。作り物の私ですが、その時初めて恐怖を感じました。ダンジョンコアとリンクして身体を再構成すれば元に戻れたはずなのですが、考える余裕すら無かったのです」
「酷いわね。ところで相手のプレイヤーさんは正気だったの?」
「いえ……目は焦点が定まっていなく、歪んだ笑みを浮かべていましたから、どちらかと言えば狂っていたのでしょうか。少し前まで普通に会話をしていたのですが。
首が撥ねられたところで、私の頭は運良く転移魔法陣の上に転がりまして、倉庫区の管理部屋に転送されました。急いでダンジョンコアとリンクして、身体を再構成したまでは良かったのですが、その直後にダンジョンコアとのリンクが途絶えました。さらに先程のプレイヤーが剣を振り回して追いかけてまして、咄嗟に開いていた転移扉に飛び込んだら、ここに転送された次第なので――」
「ちょっと待ってもらっていいかしら」
そこで桃華から待ったがかかった。
アークは多分まだ色々と話すことがあったと思うけれど、こういう対応に慣れているのだろう、すぐに言葉を止めた。
ただその後、桃華が告げた言葉は、きっと想定外だったんだと思う。
「もしかしてアークちゃんは、私たちに何とかできると本気で思ってるのかしら?」
「……えっ?」
アークは大きく目を見開いて絶句する。
でもな、桃華。それは無理だと思うんだ。
だってこの騒動のそもそもの原因を作ったのって、桃華だもの。