ボツ 7.噛まれても痛くないけど、心が痛いのよね。


「わ、私を食べたって、おお、美味しくないわよ?」
 ゆっくりと、後退る。

 大きな狼。頭の位置が私の頭より高い位置にあるから、必然的に見上げる形になる。その狼の赤い双眸がすっと細められた。
 真っ黒な体毛が数秒おきに波打っていて、その波は電気を帯びているのか波間を縫うように白い火花がバチバチ音を立てて走っている。それに伴って私の髪が、静電気を帯びてゆっくりと浮かび上がっていく。何だか肌がピリピリし始めた。

 下唇をかみながら、私もその狼の瞳をじっと見つめる。
 たぶんこういう状況になった時って、相手の目をしっかりと見て、絶対に顔を反らしちゃダメだって聞いたことある。
 相手との距離は、たぶん十メートルくらいはあると思う。結構離れているはずなんだけど、相手が巨体だからどうやってもすぐ前にいるような錯覚に陥る。ついでにいくら後退っても、離れているような気がしないのよね。

 狼の口元が厭らしく笑ったようないびつな形に歪んで、その開いた隙間から大量のよだれが流れ落ちていく。
 狼はスッと屈むと一気に跳躍、大口を開けて横向きに私に噛み付いてきた。当然だけど私は動くことも、それこそ逃げることもできずに上半身に噛みつかれた。視界が真っ暗になって、獣臭い息とベタベタした唾液に包まれて、あまりの気持ち悪さに肉壁に手をついて盛大に吐き戻した。

 そして案の定というか私の身体は、普通に無事だった。
 噛みつかれた場所は腰の辺りかな。お腹が少し圧迫された感覚でわかった。でも腰とお腹が少しだけ圧迫されているだけで、これは間違えても噛まれている感覚じゃない。
 私、ものすごく大きな狼に噛まれているんだよ?
 普通だったら、腰が千切れているはずよ。

『ガギーン!』
 むしろ私に噛み付いた狼の歯の方が悲惨な状態で、歯が粉々に砕け散って、細かい破片が口の中にいた私にも降り掛かった。顎骨までもが砕けたような、ものすごい音が聞こえた。
 固まる狼に、噛まれていて動けない私。
 どうやらまた、私の身体の謎強度は巨大狼の噛みつきすらも上回ったみたい。

「ギャンッ、ギャンギャン――」
 少し経ってから、自分の顎の痛みに気がついたのか、悲鳴とともに首を大きく振り回したあと、私を空中に投げ出すように吐き出した。吐き出された私は、空中を放物線を描きながら、錐揉み状態で瓦礫の中に頭から突っ込んだ。
 やっぱり、痛くない。

 傷まない腰をさすりながら瓦礫から這い出ると、黒い狼が尻尾を巻いた状態で逃げていくところだった。
 何ていうのかな、これはこれでヘコむ。
 襲われたのはこっちなのに、何だか私の方が悪いみたいじゃない。それに体が唾液でネバネバするし、臭いし。瓦礫に突っ込んだ時に体についた砂礫が、唾液と一緒に身体に纏わり付いていてすごく気持ち悪い。

 身体は無傷なのに、心は傷だらけよ。

 ため息一つだけつくと、立ち上がって歩き出した。



『繰り返します。全トキオシティ市民は、直ちに屋内に避難してください。現在、機関区跡開口部より、攻撃性の高い多数の未確認の敵性生物が方舟、トキオシティ内に侵入しています……どうしました? 何か追加情報がありましたか?』
『ええ、今、北区の部隊から連絡が入りまして、どうやら敵性生物は下層の入り口から先へは下りられないようです』
『つまり下層は安全なのですね。わかりました、次の放送で反映させます。あなたは情報の書き換えをお願いします』
 広域放送を聞きながら、倒壊したビルの陰を歩いていたら、ちょうど角を曲がってきたゴブリンが私に驚いて立ち止まった。反射的に投げ抜いた小石が、相変わらず恐ろしい勢いでビルの壁を抉りながらゴブリンを粉砕し、そのまま遥か彼方に消えていった。

 遠くにあったのビルがゆっくりと倒壊していく。

 その場で頭を抱えた。
 ああ、どうしよう。びっくりするとどうしても力の加減ができない。もう何棟の建物が私の『攻撃』で倒壊したか分からない。
 ただ不思議なことに、倒壊した建物はしばらくすると元の形に戻っていくのよね。今も、遠くで倒壊したビルが、まるで時間が巻き戻されるように元の形に戻っていく。

「中に誰かいたらどうしよう……。それに、どうしてあのビルが元に戻って、このビルが倒壊したままなのかしら……」
 私のつぶやきを拾って、腰元の携帯電話が反応する。
 これってあれよね、知らないうちになにかやらかしちゃってるってことなのかな。

 恐る恐る、携帯電話を手繰り寄せると、画面にポップアップウィンドウが表示されていた。アプリの名前は……noah? まんまノアの箱舟……?
 タップしてアプリを開くと、画面が一面真っ白に切り替わって私の視線に合わせるように文字が表示されていく。
 
『回答します。中に保護指定した生物がいた場合、保護機能が働き建造物は不壊となります。現在は『人』のみが保護指定されています。また、方舟表層の建造物は、ダンジョン化した時点での現状を維持するように設定されています。なお、個別に指定することで設定の変更が可能です』
「な……なにその、ご都合仕様……?」
 つぶやいた私の声を拾って、noahアプリの画面に再び文字が流れていく。

『回答します。ダンジョン構築の際、ミモザ様の記憶をトレースいたしました。その中で『ラノベ』なる書物データを参照、方舟の検索サーバに該当する書物がありトレらを取り込みました。現在の環境設定は、それを元に構築した結果となります』
「……」
『また、魔獣のダンジョン内侵入により、魔素の回収が可能となりました。回収した魔素の円滑な魔力化を進めて、ダンジョンの維持改修を進めています。改修はミモザ様の『認識』を元に行われますので、必要な時はいつでもお尋ねください』
 目を瞑って眉間を揉む。
 つまりあれかな、さっきの話から推測するに、私はこの方舟ダンジョンのダンジョンマスターってことなのよね?
 なんで、こうなったのかな……普通に二十一年、人間として生きてきたはずなのに、実は人間じゃなかったってことなのかな。まあ考えていても仕方がないか。

「ライトノベル好きでネットの読んでたけど、いざ自分がその立場になると何もできる気がしないわね……」
 もっとも元の知識はある。困った時は、携帯電話で検索できるみたいだし、認識ってのはたぶん私が見る必要があるってことなのよね。落ち着いたら、何ができるのか色々と調べて、今後の身の振り方とか考える必要がありそう。
 何はともあれ、今は安全地帯を目指さなきゃ。

 ビルの陰から、そっと道路を覗く。
 二足歩行の犬の集団が、唸りながら時折鼻をひくつかせて公園の階段を上がっていく。その公園では、白と黒の巨大な熊が諸手を上げて威嚇しあっている。
 飛んできた小型の翼竜が、木の上に下りて獲物を物色している感じだし。

 現状としては、結構面倒な状況だったりする。
 不運なことに、私は破壊された機関区の近くにいたから、周りにあるほぼすべての建物が倒壊していて、未だに避難できる建物が見つかっていない。さっきもビルの割れた窓から覗いた部屋に、既に白毛の猿の群れが居て慌ててその場から離れたくらいなのよね。
 もう少し都心部に向かわないと、無事な建物がない感じ。
 
 腰元の携帯電話から、通知音が聞こえる。
 瓦礫の陰まで一気に走って、瓦礫の隙間に身を潜めた。すぐ横を多脚の馬が砂煙を上げて駆け抜けていった。

『全トキオシティ市民にお知らせです。現在避難先として安全が確認されているのは、窓や扉がしっかり閉まることで開口部がなくなる建造物、及び表層を除く方舟下層の各プラント区画です。スマートフォンのマップアプリにて、対象になる建造物がピックアップ……って待って、誰が勝手にマーク増やしているのよ』 
『分かりません、何者かが現場から書き込んでいるように見えますが、少なくとも半数以上がこちらからは未確認の建造物です!』
 こうしている間にも、ずっと避難案内のアナウンスは続いている。

 何だか嫌な予感がして、腰元の携帯電話の画面を見た。
 ボップアップ通知が出ていたので、noahアプリを開く。案の定というか、私が認識したからだと思うけれどマップシステムが取り込まれたみたい。

『マップアプリサーバにリンクしました。反映されている情報を解析……マップデータにより方舟全土の『部屋』構造の建造物を不壊ロックしました。また、人間を限定対象に全地区の『部屋』に対する侵入を許可しました。現在、多数の生物が表層に侵入していますが、全て侵入不可の設定に変更しました。必要に応じて、個別の設定をしてください』
「……どうしよう、私特定されちゃうのかな?」
 走る小型の竜の群れを木陰で躱して、マップで一番近くにあった安全な部屋、新東京西区機関区前区役所に駆け出した。
 避難所指定もされているこの区役所は、大型災害を想定してかなり頑丈に作られているみたい。今も、隣りにあって倒壊したビルが斜めに寄りかかっているけど、びくともしない感じだし。

「君、こっちだ。今なら大丈夫だ――」
 正面に回って敷地に足を踏み入れたところで、入り口付近で警戒していた人が私に気がついた。
 迷彩服にヘルメット。たぶん、防弾チョッキとかも着ていると思う。手に持ったライフル銃で辺りを警戒しながら、駆ける私を手招きしている。さらに区役所の入り口が開いて、同じ様にライフル銃を持った人がたくさん出てきた。

「え、茂木さん?」
「なっ、葛城さんか。無事だったんですか、機関区が消失したってニュースで聞きましたが……」
 近づいていくと中の一人が、私のよく知っている人だった。思わず声をかけながら中に入る。
 茂木さんは私もよく知っている、西区の区役所の職員さんね。元々は東京都庁の新東京都開発課の職員で、私が勤めていたリュウトウ発動機の担当をしてくれていた人なの。

「たまたま用事で西区に戻ってきていて、機関区が消失した時に居住区側にいたから運良く生き残ることができたのよ」
「そうですか。それにしても、よくここまで来られましたね」
 私を守る様に外を警戒していた人たちが、一人だけ残して全員中に入ってきた。そしてすぐにまた、慌ただしく外に出ていく。

 振り返ると、片足を無くした女の人が担ぎ込まれきた。

 そしてまた、入れ替わりにライフル銃を持った数人が外に駆け出していく。

 脇によった私は、その光景を呆然と眺めていた。